心と修行
心の修養、覚り、感情、欲望、信念、手放すこと、解放を考える。
心を修め、覚る
短章 12 件 02信念と志
短章 7 件 03感情と欲望
短章 14 件 04手放すことと解放
短章 9 件短章 42 件
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《修めることと悟ることの定義》 修めることと悟ることは、それぞれどこに力を注ぎ、どう他律から自覚へ進むのか?
修め、悟る
仏
覚り
修めるのは仏となるため、求めることにある
悟るのは本性を明らかにするため、知ることにある
修めるとは、行いによって性質を律すること
悟るとは、本性に従って行うこと
修める者は他律、律によって心を制する
覚る者は自覚、心から律が生まれる
ゆえに
愚かな者は他律に従い、心を砕いて策を巡らす
賢い者は心の律に従い、心のままに生きる
道を悟るとは
熟成
蓄積
思索と問い
仏
覚り
悟ることはできても、修めて得るものではない
《修悟入門:方法と六つの原則》 修め悟ることを始めるとき、どこに力を注ぎ、どんな執着に気をつけるべきか?
どう修め、悟るか
この重大な因縁についていえば、誰もがもともと備え、一人ひとりにすでに成り立ち、少しも欠けていない。しかし始まりのない昔から、愛着の種、妄想や思い煩い、深く染みついた習慣が妙なる明るさを覆い、真に生かすことができない。心身と世界の妄想の影の中だけで暮らすため、生死をさまよう。仏祖が世に現れ、無数の言葉とさまざまな方便で禅や教えを説くのは、機に応じて執着を破るためにすぎず、もともと人に与える固定した実法はない。
修めるとは、自らの心に従い、妄想や習気の影を清め取り除くことに力を注ぐことだ。一念の妄想が突然やみ、自心が本来円満で、明るく広大で、もとより清浄であり、何一つないと徹底して見抜くことを悟りという。この心のほかに、修めたり悟ったりするものが別にあるのではない。心の本体は鏡のようで、妄想が縁を追う影は真心の塵や垢にすぎない。だから思いの姿を塵、識と情を垢という。妄念が融ければ本体はおのずと現れる。鏡を磨けば垢が取れて明るさが現れるように、法は自然にそうある。
ただ、私たちの幾劫にもわたる習慣は強固で、自己への愛着は根深く抜きがたい。今生では幸い、本来備わる般若が内から働くことを因とし、外から善知識が導くことを縁として、もともと持っていると知り、志を起こして、生死からの解脱を願う。無量劫以来の生死の根株を一気に抜くのは、些細なことではない。大きな力を持ち、身一つで担い、単刀直入に進む人でなければ、まことに困難を極める。古人の「一人で万人を敵とするようなもの」という言葉は、虚言ではない。
修悟に取りかかるところ
末法には修行する人は多くても、真に役立てられる人は少ない。力を費やす人は多くても、力を得る人は少ない。なぜか。直接取りかかるところを得ず、以前に見聞きした知識や言葉の上で分別し、妄想を抑え、光や影の入り口で修練するからだ。古人の奥深い巧みな言葉を胸に蓄え、実法とし、自分の見識とするが、ここでは少しも役立たないと知らない。これこそ他に依存して理解し、自ら悟る門を塞ぐということだ。
今修練するには、まず知識による解釈を削ぎ、ただ一念の上で取り組む。自心は本来清らかで、何もまとわず、円満に明るく、法界を満たし、心身も世界も、妄想も思い煩いもなく、この一念そのものが本来生じていないと、確かに信じる。現前するあらゆる境界は幻で実体がなく、真心に現れた影にすぎない。そう見破り、妄念が生滅するところを見据え、どこから起こり、どこへ消えるのかを見る。そこに力を込めて迫れば、どんな妄念も砕け、その場で氷が融け瓦が崩れるように消える。それに従って流れたり、連続させたりしてはならない。永嘉が相続する心を断てというのはこれだ。虚妄の浮ついた心にはもともと根拠がない。実在するものとして胸に置いてはならない。起これば叱り、叱れば消える。抑えつけてはならない。それでは水上のひょうたんのように、相手に振り回される。心身と世界を脇に置き、ただこの一念を掲げる。空を横切る宝剣のように、仏であれ魔であれ、乱れた糸を断つようにすべてを断ち、むき出しの力で押し進む。これが真如を直心で正念するということだ。正念とは無念である。無念を観られれば、仏の智へ向かうと言える。
修行を始めて志を起こすときは、唯心の法門を確かに信じる必要がある。仏は「三界は唯心、万法は唯識」と説く。多くの仏法はこの八文字を説き明かし、誰もが信じられるようにするものだ。聖人と凡人の二つの道も、自心の迷いと悟りの二つの道にすぎない。すべての善悪と因果は、この心のほかには何一つ得られない。私たちの妙なる本性は天然のもので、もともと悟りに属さないのだから、どうして迷えよう。今、迷いというのは、自心が本来何も持たず、心身と世界が本来空だと理解せず、それらに妨げられるからだ。妄想の生滅する心だけを真実と思い、六塵の境遇やさまざまな幻を実在と見なしてきた。今、志を起こし向かうのは、流れを遡って上へ進む一手である。それまでの知的理解をすべて脱ぎ捨てる必要があり、見識や巧みな方法は少しも役立たない。現前する心身と世界を一目で見通し、すべて自心に現れた浮光と幻影、鏡の像、水の月のようなものと見る。あらゆる音を木々を通る風のように、あらゆる境界を空に浮かぶ雲のように観る。すべて変幻して実体がない。外だけでなく、自心の妄想や思い煩い、あらゆる愛着の種、習気や煩悩も、浮かぶ幻で実体がない。
このように深く観て、一念が起こるたび、必ずその行方を見極める。軽く見逃したり、欺かれたりしてはならない。こう修練すれば、真実に少し近づく。ほかに玄妙な見識や巧妙な方法を持ち込んでも、まったく関係がない。修練という言葉自体も、やむをえず使っている。兵器が不吉な道具であり、やむをえず用いられるのと同じだ。古人が参禅や話頭を掲げると説いたのも、やむをえずである。公案は多いが、念仏の真実を究める話頭は、塵労の中でとりわけ力を得やすい。得やすいとはいえ、戸を叩く瓦のようなもので、最後には捨てる必要がある。ただ一度は使わずにいられない。これを修練に用いるなら、信じ切り、頼り切り、つかんで離さず、決してためらわない。今日はこう、明日は別の方法というのではいけない。悟れないのではと恐れたり、玄妙でないと嫌ったりする思案は、すべて障害だ。先に明らかにして、その場で疑わないようにする。
修練に力がつくと、外の境界は入らなくなり、ただ内なる煩悩が理由もなく起こる。欲念が噴き出し、心が悶え、さまざまな障害が生じ、心身が疲れ果ててどうにもならなくなることがある。それは第八識に無量劫以来蓄えられた習気の種が、修練に追い詰められ、一斉に現れたものだ。ここをよく見分け、見破り、通り抜ける必要がある。覆われたり、振り回されたり、実在と思ったりしてはならない。気を奮い立たせ、勇猛に励み、もとから参究している話頭を掲げ、その思いが起こるところを追い詰める。「ここにはもともとそんなものはない。どこから来たのか。結局何なのか」と問い、必ず行方を見届ける。こう迫り、神鬼すら泣き、跡を消して隠れるほどに、ことごとく追い払い、糸一本残さない。こう力を注げば、自然によい兆しが見える。
一念を打ち破れば、すべての妄念は一度に脱落する。空の花の影が落ち、陽炎の波が澄むようなものだ。この一度を越えれば、無量の軽やかな安らぎと自在を得る。これは初心者が力を得るところであり、玄妙なことではない。その安らぎと自在に喜びを起こしてもいけない。喜べば歓喜の魔が心に入り、障害が一つ増える。蔵識の中の習気や愛着の種が強固に深く潜み、話頭の力も心の観照も届かず、自分では手をつけられない場合は、礼仏、読経、懺悔をし、さらに密かに真言の心を持ち続け、仏の密印の力で除く必要がある。密咒はすべて仏の金剛の心印であり、使うのは金剛の宝杵を持つようなものだ。あらゆる物を砕き、触れる物は微塵となる。歴代の仏祖の心印の秘訣も、これを出ない。ゆえに、十方の如来はこの咒心を保ち、無上正等正覚を成就すると言われる。仏は明言しているが、祖師の門下では通常の感情に落ちることを恐れ、秘して語らない。使わないのではない。毎日の定まった実践が必要で、長く習熟すれば大きな力を得る。ただし神秘的な応験を求めてはならない。
理解による悟りと体得による悟り
修行者には、先に悟ってから修める人と、先に修めてから悟る人がいる。ただし悟りには、理解と体得の違いがある。
仏祖の言葉に基づいて心を明らかにするのが、理解による悟りだ。多くは知見に落ち、さまざまな境遇で力を発揮できない。心と境界が対立し、溶け合えず、行く先々で滞り、多くの障害となる。これは似かよった般若であり、真の参究ではない。
体得による悟りは、自らの心の中で実直に取り組み、山も水も尽きるところまで追い詰め、突然一念がやみ、自心を徹底して悟ることだ。十字路で実の父に会うように、もう疑いはない。水を飲んだ人が冷暖を自分で知るように、人に言い表せない。これが真の参究と実際の悟りだ。その後は悟ったところをもって心と境界を融け合わせ、現れる業と流れる識を清め、妄想や思い煩いをすべて一味の真心に融かす。これが体得による悟りである。
この体得にも深浅がある。根本で修練し、第八識の枠を破り、無明の洞穴を覆し、一気に直入して何も残さないなら、最上の鋭い資質を持ち、体得は深い。それ以外の漸修では、体得は浅い。
最も恐れるべきは少し得ただけで満足することだ。光と影の入り口に落ちてはいけない。第八識の根本が破れていなければ、何をしても識神の周辺のことにすぎない。それを真実とするのは、盗人を我が子と思うのと同じだ。古人は、道を学ぶ人が真を知らないのは、以前から識神を認めているためであり、無量劫の生死の根本を愚かな人は本来の人と見なす、と言う。この関門を通り抜けることがとりわけ大切だ。
頓悟漸修とは、先に徹底して悟っても、習気を一度に清めきれずにいる場合、あらゆる境遇で悟った理によって観照の力を起こし、境遇を経て心を確かめることだ。境界を一分融かせば法身を一分体得し、妄想を一分消せば本来の智が一分現れる。これもすべて細やかで絶え間ない修練にかかり、実際の境界で行えばいっそう力を得る。
修悟の六つの原則
資質が鋭く、信心が勇猛で、進んで修練する人でも、事柄の障害は除きやすく、理の障害は除きにくい。その問題をいくつか挙げる。
第一、玄妙なものを貪り求めない
これは本来平らで、実直で、ただ平常であり、玄妙なものはない。だから古人は、悟ってもまだ悟らぬときと同じで、依然として昔の人だが、歩むところは昔と異なる、と言う。玄妙なことはなく、修練が至れば自然に平実になる。私たちの知的理解の習気がまだ清まらず、内なる般若もそれに染められると、幻や巧みな見解が生まれ、心にまとわりつく。それを玄妙だと思い、深く入り込んで捨てない。これは識神の明るい影であり、分別する妄見の根で、見の棘とも呼ばれる。以前の粗い妄想とは違い、微細に流れ続ける生滅であり、智の障害とも呼ばれ、正しい知見を妨げる。真実だと思えばさまざまな狂った見解を起こす。最も戒めるべきことだ。
第二、悟りを待つ心を持たない
私たちの妙に円満な真心は、本来対立を絶している。妄想が凝り固まり、心と境、根と塵が対立して立つため、惑いを起こし業をつくる。修行する人は、一念に心身と世界を放し、この一念だけを掲げて前進し、悟るかどうかを気にしてはいけない。一念一念、一歩一歩進めばよい。修練が至れば自然に本来の面目が見える。なぜ先回りして考える必要があるのか。悟りを待つ心そのものが、生死の根株だ。永劫待っても悟れない。対立を絶した真心を理解せず、別に何かあると思うからだ。待つ心を除かなければ疲れと嫌気が生まれ、退きやすくなる。物を探して見つからず、やめようと思うのと同じだ。
第三、妙なる果を期待しない
衆生の生死の妄心は、もともと如来の果の本体だ。迷いの中では、諸仏の神通の妙用を妄想、思い煩い、分別、知見に変え、真に清浄な法身を生死の業の姿に変え、清浄な妙土を六塵の境界に変えている。今修練し、一念に自心を悟れば、大きな炉が万象を融かすように、この心身と世界はもともと如来の果の本体、この妄想や思い煩いはもともと神通の妙用となる。名を変えても本体は変えない。永嘉は、無明の真の性は仏性であり、幻の空なる身は法身である、と言う。この法門を悟れば、取捨の情を忘れ、喜び嫌う心がやみ、一歩ごとに華蔵浄土、一心ごとに弥勒の下生となる。先に妙果を求める心を置けば、その希求の心が生死の根本となり、正しい知見を妨げ、求めるほど遠ざかる。求め疲れれば嫌気が生じる。
第四、自ら疑念を生じさせない
修練で心身を放し、見聞知覚を断ち、昔の歩みを脱ぐと、前方は暗く、身を安んじ命を立てる場所がない。進んでも新たな体得はなく、退いても以前の居場所を失っている。前後を思い計れば疑いが生まれ、無数に思案し、損得を比べ、別の臆見や邪念を起こし、正しい知見を妨げる。これを見破り、決然と直入し、もう顧みないことだ。修練ができなくなるところまで来たときこそ、力を得るところである。さらに精気を奮えば、退かず屈しない。そうしなければ憂愁の魔に落ちる。
第五、恐怖の心を生じさせない
修練の念の力が切迫し、妄想を追い詰め、一念が突然やみ、心身が空へ脱落すると、大地に一寸の土もなく、深さは際限がないと見えて、大きな恐怖が生まれる。ここを見破れなければ前進できない。また、この広く開けた空を優れた妙境と思うこともある。この空を実体とすれば、大きな邪見を起こし因果を否定する。ここは最も危険だ。
第六、自心が仏であると確かに信じる
仏は別の仏ではなく、心そのものだ。仏の真の法身は虚空のようなもの。妄がもともと虚だと達すれば、本来ある法身がおのずと現れ、明るく静かに照らし、円満に行き渡り、欠けも余りもない。心を外へ走らせて求めてはいけない。この心を捨てて別に求めれば、心の中に無数の夢想の境界が現れる。それは識神の変化した姿にほかならず、特別なものと思ってはならない。清浄な心には本来何一つなく、一念さえない。心を起こし思いを動かせば、法の本体から外れる。
今の修練者は、自心の妄想がもともと虚妄だと知らず、それを真実と思い込み、ひたすら敵にする。幼児が灯りの影と戯れるように、戯れるほど的外れになり、長く続けると自ら恐れを生む。
また妄想を恐れ、一つかみにして脇へ投げ捨てたいと願う人もいる。風や影を捕らえるようなもので、一日中取っ組み合い、力を使い果たし、一念も休めない。長く絡み続けると信心が疲れ、参禅は効かないと言い、誹謗、恐怖、退転の心を生む。これは初心者に共通する病だ。常住の真心と不生不滅の性に達せず、妄想を実在する法と思うからである。ここは必ず通り抜けなければならない。この関門を越えるには向上の道がある。心意識を離れて参究し、妄想の境界を離れて求める。一念が起これば、善悪を問わず即座に放し、決して敵対しない。自心には本来そんなものはないと確かに信じ、参究する話頭を力強く掲げる。金剛の宝剣のように、魔も仏も払い切る。ここには大きな勇猛、大きな精進、大きな忍耐が必要だ。前後を計算せず、弱気にならず、直心と正念をもって身を挺して進む。そうすれば自然に堂々とそびえ、妄想に絡まれず、鞲を離れた鷹のように、四六時中あらゆる境遇に妨げられず、大きな軽安と自在を得る。これが初心者の第一歩で力を得るところだ。
以上の数則は蛇足のようなもので、その時々の方便の言葉にすぎない。究極でも実法でもない。道のほとりで門を一歩出たところで、分かれ道に迷い、心力や時間を無駄にすることを恐れて述べた。真の一門に入り、妙なる荘厳の道へ抜け出さねばならない。歩みが平らで正しければ、速さは風のようになり、その進みは一日と一劫ほど違ってくる。
要するに、仏祖の向上の一本道は道程に関わらないが、初心者への方便としても、まずここを通り抜けなければならない。
《心を修めることは命を修めること》 自分の思いを振り返るとき、暮らしの損得や関係をどう捉え直せるか?
心を修めることは命を修めること
思いどおりにならないことはすべて、過去の徳行が返ってきたものだ。前世も来世もなく、あるのは今生だけだ。
心を修めなければ、命はただ命を体験するだけ。そばにいる人を愛し、幸福を見つけよう
心を修める内容はすべてここにある
私の心がすべてであり、すべては私の心だ
不平は苦しみ
感謝は幸福
貪欲がなければ、どうして欺かれるだろう
私心がなければ、どうして傷つくだろう
因果で過去を見る
道義で現在を見る
信じること、信頼、信念、信仰
1. 信じること(believe):ある見解、理念、人を認め、受け入れること。客観的事実や経験に基づく判断であり、理性と証拠を土台にすることも、個人の信念や感情的体験に基づくこともある。
2. 信頼(trust):ある人や組織の頼もしさ、誠実さ、忠実さを認め、受け入れること。相互の尊重、正直さ、責任に基づく関係であり、互いの理解や経験を土台に築ける。
3. 信念(belief):ある理念、価値観、道徳原則を強く認め、受け入れること。内なる体験と認識に基づく考えであり、宗教的信仰、道徳観、文化的伝統などが含まれる。
4. 信仰(faith):ある神、信仰体系、宗教的信仰を強く認め、受け入れること。信じる人の心や霊性の感覚に基づき、宗教的信仰、人生哲学、価値観などが含まれる。
誠実さ、清らかな心、安心、職人の心、満足、喜び、心地よさ、熱意、自信
目ではなく心で見る。世の本当に貴重なものは、往々にして目には見えない。
人生の真実は、成果や栄誉を得ることにとどまらず、次の場所へ進む勇気にある。
大いに覚り、大いに自在である人こそ仏だ
《知者と愚者の違い》 私を律するものは外から来るか、内なる自覚から来るか?
愚かな者は他律に従い、心を砕いて策を巡らす
賢い者は心の律に従い、心のままに生きる
《どうすれば楽しくなるか》 自分らしくあり、価値あることを成すことで、どう喜びと自信を得られるか?
自分でいるのが最も楽しく
成し遂げるのが最も自信になる
自信は、誰も及ばない独自のものを持つことから生まれる
しかもそれが、世の人々にとって価値があり必要なものであることだ
《修めることと悟ること》 行動を通じた修練と内なる覚りは、どうつながるのか?
仏
覚り
修めるのは仏となるため、求めることにある
悟るのは本性を明らかにするため、知ることにある
修めるとは、行いによって性質を律すること
悟るとは、本性に従って行うこと
覚る者は自覚、心から律が生まれる
修める者は他律、律によって心を制する
道を悟るとは
熟成
蓄積
思索と問い
仏
覚り
悟ることはできても、修めて得るものではない
《修行》 私の理解する修行は、行動や身近な人に本当に結びついているか?
本当の修行は、行いを通じて修めることから生まれる。
仏を信じるより、「仏の行い」を多くすることが大切だ。
世の外に高人はいない。世を離れれば高人は存在せず、命を修めなければ命を体験するだけだ。
見通したうえで見切ってしまうのは「心の死」、見通しても見切らないのは「知恵」。
満足せず、足るを知る――幸福
満足しても、足るを知らない――苦痛
そばにいる人を愛し、幸福を見つけよう
《悟り》 他人の思想を学ぶとき、自分の判断を保ち、人を助けるにはどうすればよいか?
自立を学び、あまねく人を救うことを学ぶ
多くの人は思想とは真理を探すためのものだと言う。
多くの人は他人の思想のもとで正誤を争う。
多くの人は知識や思想の前で自分を見失う。
一言でいえば「迷い」だ!
迷いとは何か。他人の思想の奴隷になることだ。
普通の人は他人の思想のもとで生き、正誤を争い、心身と魂を外界に支配される。
大成する人は独立した自分の思想を築き、衆生を救う。心を動かすかどうかは自分で決める。
仏とは覚った人のことだ。覚ることができたその瞬間、あなたは仏である。自ら覚るだけでなく、独立した思想を生み出し、衆生を覚りへ導けるなら、あなたは仏の主である。
仏を敬い、仏に学び、仏を修めるが、仏を盲信しない。
財神を敬い、財神に学び、財神を修めるが、財神に惑わされない。
大成する人は思想を超え、その上に立ち、思想を築き、思想を使う。自分を強くし、自分の尊厳を確立し、独立した思想で人の成長を助け、万物の力を自分に役立てる。
《経験の束縛を抜け出す》 過去の経験が、未知への探究を妨げるのはどんなときか?
固執から自分を解き放とう。
多くの人は過去の経験を根拠に判断するが、私たちが歩む道は既知だろうか、未知だろうか? なぜ中国の映画には時代劇が多く、西洋ではSFなのか? すべては思考の焦点によって生じる。
普通の人は過去の経験に縛られ、大成する人は過去の経験を削ぎ落として未知を探る。
普通の人は過去を見て今日を歩み、大成する人は未来を見て今を生きる。
《性格からの解放》 さまざまな状況で、私は性格を使っているのか、それとも性格に支配されているのか?
性格から自分を解き放とう。
普通の人は性格に縛られる。大成する人は大局を心に置き、固定した性格を持たない。性格に左右されず、それを超え、その上に立ち、それを使う。その場で必要な性格を表す。固定した性も我も姿も持たず、入る場に応じた姿を現す。
《行動を修め、本心を悟る》 行動を正すとき、その背後の思いにも目を向けているか?
修めるとは行動を正し続けること、悟るとは行動の背後の心を見ることだ。
《暮らしの中で覚りを確かめる》 理解したと思っている道理は、具体的な出来事による検証に耐えられるか?
覚りは暮らしと関係に立ち戻り、具体的な出来事による検証に耐えなければならない。
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《志を立て、善を行い、心を修める》 志を立てること、善を行うこと、心を修めることは、日々の実践でどう互いを成就させるか?
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○ それは未来への展望、夢を貫く姿勢、人生の意味の探究である。個人の成長において、確かな志があってこそ人生の風波を乗りこなし、挑戦や苦境に向き合える。
● 行いを立てる:実行する
○ 志を持ったら、次はそれを実践の歩みに変える。行いを立てるとは行動を重んじ、自分への約束を実行することであり、理論や夢にとどまることではない。修め悟る過程では、実践を通じて初めて人生の意味や世界の仕組みを本当に理解できる。
● 徳を立てる:行動を通じて人格を養う
○ 「孟母三遷」の物語のように、徳を立てるとは行動の中で人格や資質を積み上げることだ。それは人の道徳観、価値観、人生への姿勢を表す。個人の成長と修悟において最も核心的な部分であり、その人の価値と影響力を決める。
○ 生涯を通じて高い道徳性と修養を追い求め、清らかな徳と正しい行いを備えた人になろうと努める。どんな苦境や誘惑に直面しても道徳原則を守り続け、良心と道徳を行動の羅針盤とする。
○ 徳を立てるのは自分のためだけではなく、社会によい影響をもたらすためでもある。高い徳を持つ人は社会の模範となり、他人に影響を与え、社会全体に前向きな力をもたらせる。
● 功を立てる:影響を広げる
○ 「愚公山を移す」の物語のように、徳を立てた後には、その人の価値観と人格が行動や決断に影響し、社会、家庭、チームに深い影響を及ぼす。
○ 功を立てるとは、その影響の現れであり、個人の価値が肯定され、認められることだ。さまざまな分野や階層で絶えず価値を創り、社会、家庭、組織によい変化をもたらすよう努める。功を立てるとは、理想だけでなく実践も持ち、実際の行動によって世界を前進させることを意味する。
○ 一時の成功や成果に満足せず、持続的に、少しも気を緩めず社会に貢献し、長期的な価値を創る。
● 言葉を立てる:知恵を伝える
○ 「百家争鳴」の物語のように、言葉を立てることは、個人の成長、修悟、発展の最終的な成果である。
○ それは自分の経験、知恵、見解を人と分かち合い、成長と進歩を助けることだ。
○ 言葉を立てるとは、口頭で伝えるだけでなく、行動、姿勢、価値観で模範を示すことでもある。暮らしの中で、行動だけでなく言葉によっても、自分の見解、経験、知恵を分かち合う。それは知識や理念を受け継ぎ、人を啓発し、向上へ導く責任を持つということだ。
○ 言葉を立てることは、後世への貢献でもある。よい言葉や思想は種のように人の心に根づき、芽を出し、世代を超える宝となる。
善を帰着点とする
行う
善でなければ、立つすべがない
あらゆる探究と実践において、究極には善を積むことを最高の基準と帰着点とする。「善」には五つの側面がある。
● 善い思い:思考の起点
○ あらゆる行動や感情は、一つの思いから始まる。善い思いとは内なる最初の前向きな考えや意図であり、善良さや正しさへの憧れだ。それはすべての前向きな行動の起点であり、人生の道の第一歩の方向を定める。
● 善い心:内なる原動力
○ 善い思いが持続し積み重なると、善い心が形づくられる。それは心の奥底の善に対する真摯な感情と絶え間ない探究である。正しいことをし続ける内なる原動力であり、信念である。
● 善い因:行動の始まり
○ 善い心を持つと、具体的な行動へと促される。この前向きな行いが善い因であり、善い思いと善い心の具体化であり、未来のよい結果の直接の原因でもある。
● 善い縁:環境の応答
○ 善い因は外の世界に連鎖反応を起こし、善い縁を生む。善い縁とは私たちの前向きな行動が引き起こす良好な外部環境や要因であり、運命づけられたよい機会と条件でもある。
● 善い果:結果の現れ
○ 善い思い、善い心、善い因、善い縁は、最後に善い果という結果へと導かれる。善い果はそれまでのすべての段階の結末と報いであり、よい成果と還元を表す。
正して実行する
これを行う
正しくなければ、すべて空となる
あらゆる実践で正直な姿勢を保ち、正しいやり方を貫き、行動と道徳基準を一致させる。「正」には五つの段階がある。
● 正直:誠実かつ公平に行う
○ 正直は、すべての事業家の内なる原則であり、道徳の座標である。真実、誠実、公正を守り、どの瞬間にも偽りなく、隠さず、偏らないことを求める。商業の世界では、公平な取引、誠実さと信頼、自分をありのままに示すことを意味する。
● 公正な品格:チームを公平に扱う
○ 公正な品格は、正直という原則がチームや組織に表れたものだ。公正な文化を守り、一人ひとりを公平に扱い、事業の方向をチームの価値観と一致させることを求める。
● 正義:商業の均衡
○ 正義は、外部市場の公平と均衡を表す。事業においては、あらゆる協力相手、顧客、競争相手との関係で公平と正当性を保ち、他人の権益を損なわず、市場の正常な秩序を守ることを求める。
● 正道:発展の道筋
○ 正道は、事業が発展する正しい方向と道筋を示す。長期的、持続的、調和的な発展の方向を表し、利益を求めると同時に社会と環境の調和と均衡も保つ。
● 正しい事業:原則を仕事に生かす
○ 正直、公正な品格、正義、正道は、最後には事業の成果、すなわち正しい事業に表れる。それは前向きな原則と価値が実際の事業に現れたものであり、それまでのすべての段階の結末と報いであり、事業の成功の最終的な印でもある。
人間性
悪は肉体にあり
善い思いは魂にある
心と魂の善は肉体の悪に勝てない
両者は互いを刺激する
人に善を教える思考と思想だけが不朽である
もっと多くを経験し、体験する
もっと多くを受け継ぎ、広く世に伝える
たとえ百劫を経ても、なした業は消えない。因縁が巡り合えば、その果報は自ら受ける。曾子も言った。「人が善を好めば、福はまだ来なくとも、禍は遠ざかっている。」
「天は陽によって万物を生み、陰によって万物を成就させる。生むことは仁、成就させることは義」。善は仁を、立てることは義を意味する。仁は本質、義は表れである。義を思いの起点とし、仁を行動規範として帰着する。因果は循環し、破らなければ立てられないという法則に従い、守る、破る、立てるを繰り返す。虚を極め、静けさを篤く守る。万物がともに生じる中で、私はその回帰を観る。
人生の三不朽である立徳、立功、立言に、立志と立行を加える。志を立てることが起点だ。志が立たなければ、行動に大義はなく、成せることもない。志がなければ行いもなく、徳も功も言葉もない。そこで本来の自分の段階では、企画者になる志を立て、多大な時間と労力を注ぐ。一つひとつの事業案件での経験と体験を通じ、企画者に必要なすべての徳行を自らに身につけ、これによって徳を立てる。相談、企画、研修を通じて商業の発展を助け、功を立てる。普遍的な価値観に従い、自分が熟成し蓄えたものを、必要とする人に惜しみなく広める。その過程で内容を発信し続け、インターネットを通じて広く世に伝え、言葉を立てる。この全過程を立志、立行、立徳、立功、立言と呼び、「立つことによって始まる」とまとめる。
仁は天道であり、天は万物を生む。大いなる善、人への善意、利他の心を持ち、天を敬い人を愛する人生の価値観に従う。一念が起これば万水千山に幾世もの繁栄が広がり、一念が滅びれば世界は変わり、万古のものが失われる。善悪は一念の間にある。善い思いが善い心を養い、善い因を創り、善い縁を行い、善い果を生む。初めは信条として、行いによって性質を制し、律によって心を制する。最後は善に基づいて行う段階に上がり、覚る者は自覚し、心から律が生まれる。これを「善を帰着点とする」とまとめる。
「立つことによって始まり、善を帰着点とする」という中国語の八文字を、限られた命の中で絶えず修め、悟る。修めることは求めることに、悟ることは知ることにある。修めるとは行いによって性質を制し、悟るとは本性に従って行うこと。覚る者は自覚し、心から律が生まれる。修める者は他律に従い、律によって心を制する。本来の自分を修め、超える自分を悟ることを繰り返し、悟る力を高め続けなければならない。
華やかなものを払い、本心を照らし見る。澄んで清らかに、光は虚空のすみずみへ届く。
このフォルダの内容は、日頃さまざまな出来事から得た気づきを記録し、分類して保存したものだ。身近な友人との対話や意見のぶつかり合いに由来するもの、本から得た気づきをまとめたもの、大師と呼ばれる人の教えに由来するものもある。
外界、レッテル、天才、時間、人生の目標、現実、後悔などを扱っている。
思創社
思考の最高の境地
一念が起これば、万水千山に幾世もの繁栄が広がる
一念が滅びれば、世界は変わり、万古のものが失われる
この世界では、人の生まれが社会における階層をすでに決めている。人間社会の秩序が長年機能する中で、階層の間に障壁ができたからだ。したがって本来の自分は出身階層を越えられないが、思考の面では階層を突破できる。論理的思考を使い、「人間」の俗世の秩序と「天道」の自然の大法を悟る。「人」と「天」が一体であるという視点から見れば、宇宙天地も万事万物も、価値と意味に満ちた存在である。論理的に考えれば、自らの努力によってその価値と意味を発見し、強い精神的原動力を得られる。さらに大切なのは、その価値と意味を人間社会で実現し、「天道」の大法にかなう合理的な政治文化秩序を築くことだ。そのため、「天道」の本体に立つにせよ「人倫」の秩序に立つにせよ、俗世に生きる人々が身近な学びから高い道理へ達することを励ます十分な理由がある。さまざまな仁と義の道徳的実践に身を投じ、人生に貫かれる「天命」が託す命の務めと究極の価値を実現してほしい。
天道と聖徳
天は陽によって万物を生み、陰によって万物を成就させる。生むことは仁であり、成就させることは義である。ゆえに聖人が上に立てば、仁によって万物を育み、義によって万民を正す。天道が行われれば万物は従い、聖徳が修められれば万民は感化される。大いなる順応と感化が、その跡を見せず、なぜそうなるかもわからないことを神妙という。ゆえに天下の人々の根本は一人にある。道は遠いものだろうか。術は多く必要だろうか。
周敦頤『通書・順化第十一』
俗世の規則
金は俗世の道具であり、生まれるときに持参せず、死ぬときに持ち去れない協働の道具だ
権力は統治の道具であり、支配力とその範囲に影響する管理の道具だ
名声は評判の道具であり、社会の各階層を行き来できる扉を開く鍵だ
周敦頤が『通書・順化第十一』で「ゆえに天下の人々の根本は一人にある」と述べるように、俗世は複雑ではなく、すべて人間性に帰着できると悟れる。人間性とは「権勢、金銭、物質」であり、俗世の凡人はそこから離れにくい。だから人間性を十分に理解し、受け入れる必要がある。
定まることが知恵を生む
● とどまる所を知って初めて心が定まり、定まって初めて静かになり、静かになって初めて安らぎ、安らいで初めて思慮でき、思慮して初めて得ることができる。
● 静けさは定まりを生み、定まりは慧を生み、慧は智を生む。
● 守る、破る、立てる。最も安定した螺旋状の上昇
《強くなる》 苦痛を経験するとき、そこにどんな自分を鍛える機会を見いだせるか?
私を苦しめる人が、私を強くする
苦痛は、大業を成すあらゆる人が自らを修める最速の道だ
困難と苦痛がなければ、人は覚れない
ここで私たちははっと悟る
友人にすべてが順調であるよう祈ることは、実は平凡な一生を祈ることなのだ
千百年の間、大業を成した人で順風満帆だった人は一人もいない
《気落ちしない》 挫折したとき、何に自分の精神を託したいか?
気落ちした言葉は一言も口にしない。私たちは魂を大事に託す!
蒼天は私の心にあり、
大地は私の足下にある。
内には山河を呑む気迫、
外には衆生全体への視野。
天を頭上に仰ぎ、地を踏みしめ、鴻鵠の志を胸に抱き、何も恐れない!
《福の報い》 福の報いを期待する前に、自分の身、口、意を真剣に見守っているか?
内面から自分たちの身、口、意を観察し、清らかな心で慈善と事業を行おう。
その過程で、心は完全になるだけでなく、強くもなる。あらゆる福の報いは求める必要がなく、自然に訪れる。
福の報いがないときは、誰かが雪の中で炭を届けてくれても、家に火をつけるライターがあるとは限らない!
《力》 多くの人のために尽くそうとするとき、行動する力はどこから来るか?
力のある人とは何か? より多くの人のために生きる人だ!
力はどう来るか。「借りる」のだ
何人のために生きるかに応じて、その人数の力を借りる。
簡単にいえば、衆生のために生きれば、衆生の力を借りられる!
《志は方向を定め、信念は継続を支える》 行動の方向と続ける力は、それぞれ何に支えられるか?
志は行動の方向を決め、信念は困難の中での継続を決める。
《信念は長年の選択に表れる》 長年の選択から、その人の本当の信念をどう見いだすか?
本当の信念は宣言ではなく、長年の選択によって証明される。
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《心の魔》 目に映る他人のどれほどが、自分の内面の投影か?
心に魔があれば、誰もが鬼に見える
心を仏へ向ける
《善と悪》 内なる善い思いと身体の欲求が出会うとき、私は何を見るか?
悪は肉体にあり
善い思いは魂にある
だが魂の善は肉体の悪に勝てない
両者は互いを刺激する
《満足》 現状に満足しないことは、足るを知り幸福であることと両立しないのか?
満足せず足るを知れば幸福、満足しても足るを知らなければ苦痛
《偽らない》 ある姿を見せるために、本当の自分からますます遠ざかっていないか?
人類で最も恐ろしい見えない殺し屋は「偽り」、
一言で「装う」ことだ!
装うほど偽りになり、偽りになるほど装い、結果として本当に偽物の人になる。真実は現実的でなく、現実は真実でない。偽りを脱するには、あらゆる幻を消し、根本と本質に入らねばならない。今解放され、今流れ出す。
《楽しむ》 外からの朗報がなくても、今していることの中に楽しみを見つけられるか?
喜ばしい知らせがなくて、どう「楽しむ」のか? どうすれば「楽しく」なるのか?
「楽しさ」は外に探すものではない。事を始める前に、
価値を感じるものを見つけ、
最悪に備え、
今に溶け込めば、たちまち力が宿り、そのまま楽しさに入る。神の助けのように、生きるほど美しく、美しいほど「生きる」。状態、知恵、感覚が一つずつ戻ってくる。
人生は地球へ「遊びに来た」ようなものだ!
《制御を失う欲望と自己意識》 願いが理性の境界を越えるとき、まだ自分を見極められるか?
非現実的な期待や願いは、制御できない欲望になるかもしれない。理性を失ったそんな欲望は、破滅へ導くだろう。
自己意識がないとき、人は周囲の世界と一体であり、自由はまったくないが、安心感、一体感、依着感がある
《欲望を呼び起こす》 どんな目標が、行動したいという欲望を呼び起こすか?
* 心を惹く目標
《前向きな反応》 どんな進歩が、前向きな反応を感じさせるか?
* 努力を感じさせない進歩
《未完了の緊張感》 まだ終わっていないことは、なぜいつまでも心に引っかかるのか?
* 未完了の緊張感(ツァイガルニク効果)
《七情六欲》 異なる伝統が説く七情六欲は、それぞれどんな感情や欲求を指すか?
**七情:**喜び、怒り、憂い、思い、悲しみ、恐れ、驚き
**六欲:**眼、耳、鼻、舌、身、意
七情は『礼記』では喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲を指し、儒家も同じである。仏教では喜、怒、憂、懼、愛、憎、欲とされ、医家では喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲とされる。
『礼記・礼運』:「人情とは何か。喜び、怒り、悲しみ、恐れ、愛、憎悪、欲の七つは、学ばずともできる。」
『三字経』:「喜怒といい、哀懼という。愛悪欲で、七情がそろう。」
中医学では七情とは「喜、怒、憂、思、悲、恐、驚」の七つの情志である。これらが過度に激すると陰陽が乱れ、気血が巡らず、さまざまな病気を引き起こしうる。中医学が「欲」を七情に含めないことは、考えさせられる。
六欲は『呂氏春秋』では生、死、耳、目、口、鼻から生じる欲望を指す。仏教では色欲、形貌欲、威儀姿態欲、言語音声欲、細滑欲、人想欲とされる。生存欲、知識欲、表現欲、自己顕示欲、快適さへの欲、情欲という説もある。
『呂氏春秋・貴生』が初めて六欲の概念を掲げ、「生を全うするとは、六欲がすべて適切であることだ」と述べた。後漢の思想家、高誘は「六欲とは生、死、耳、目、口、鼻である」と注した。後世では、見る欲(視覚)、聞く欲(聴覚)、香りへの欲(嗅覚)、味への欲(味覚)、触れる欲(触覚)、意の欲にまとめられた。
『大智度論』は六欲を色欲、形貌欲、威儀姿態欲、言語音声欲、細滑欲、人想欲とし、基本的に俗人が異性に対して生まれつき持つ六種の欲、すなわち現代でいう「情欲」と位置づける。
正しいことをすれば、決して間違わない
《欲がなければ強くなれる》 物事を気にしすぎると、かえって内なる力を失わないか?
何事も気にしすぎてはいけない。欲がなければ強くなれる
《穏やかさの中にも、つらさはある》 感情が安定するとは、悲しみや悔しさがないという意味か?
経験が増えると、すぐ慌てなくなることもある。まだ対処の余地があり、今のつらさが長く続くとは限らないと知れば、行動を安定させやすい。私はその穏やかさを重んじ、理解と経験から生まれてほしいと思う。
穏やかな外見は、内に感情がない証拠ではない。失望は失望であり、悔いはなおつらい。段取りを整えながら、感情を消化する時間が必要なのも、完全な反応だ。隠しても自動的には消えない。
悪い出来事に出会ったら、今何を処理する必要があり、自分は何を感じているかを分けられる。急ぐことは先に行い、説明すべき感情は適切な時に表す。行動に秩序を残し、自分にも出口を残す。
安定は練習する価値があり、感覚も尊重する価値がある。理解を経て徐々に穏やかになることと、常に感情を禁じることは、向かう先が違う。本当の自分に向き合えてこそ、実際の出来事にも余裕を持てる。
《感情に気づいてから行動を決める》 感情が湧くとき、まず観察してから行動を決められるか?
まず感情と欲望を観察し、それを行動に変えるかを決める。
《欲望の境界》 欲望に前へ押されるとき、境界と結果も見極めているか?
欲望は力を与えるが、境界、節度、結果への意識も必要だ。
手放すことと解放この小テーマを開く →
《手放す》 取り返しのつかないことが起きた後、残りの道をどうよく歩き続けるか?
悲劇に遭ったら、自分を手放せるようにする必要がある。悲劇は取り戻せないのだから
悲劇が起きても、道は歩き続けなければならない。手放せてこそよく歩け、本当に豊かなものになる。
自分の人生が精彩を欠くことを望む人はいない
一生は長い
一生は短い
悲劇か、精彩か
すべては心のあり方次第だ。
あなたの思考が、運命を決める。
《涅槃と再生》 新たに始めるには、まず目の前の一瞬一瞬を大切にすることを学ぶべきか?
私は仏に尋ねた。「涅槃と再生とはどういう意味ですか」
仏は答えた。「涅槃は『不生』『無為』『無動』だ。再生はあなたの因である。何によって生まれ、何のために死ぬのか。生死が問題でないなら、なぜ涅槃や再生を求めるのか。すべてはあなたの心から生まれるか生まれないか、行うか行わないか、動くか動かないかだ。この問いを発したとき、実はすでに答えがないことを意味している」
仏はいないし、仏が話すこともない。仏とは覚りであり、自分自身だ。自分こそ自分の主である。一分一秒を大切にし、大切にすることを学ぶ。それが涅槃と再生だ。
《茗山長老の臨終の教え》 命の無常を前に、修行を心の清めと人への接し方にどう生かすか?
無常が訪れて初めて、身が幻と知る。どうか多く念仏し、一念ごとに貪りと怒りを鎮めよう
秋の水に魚の跡、長い空に鳥の跡。どこへ行くかと問えば、浄らかな地へ往生する。覚って迷わず、生には必ず滅がある。願いに乗って再び来るのだから、悲しみ泣く必要はない。
仏の遺した教えは、戒を師とし、戒によって定を修め、定によって慧を起こすことだ。戒定慧により苦を知り、その原因を断ち、滅を慕って道を修め、解脱へ向かう。
自らその心を清めることが、諸仏の教えだ。各宗各派は道が異なっても同じ所に帰る。何を信じても、信仰は自由だ。
互いを尊重し、門戸を立てず、六和をもって争わず、団結し助け合う。教えに従って行い、五戒十善、四摂六度を、一歩ずつ修めよう。
《放す》 悩みを手放したいとき、内にはすでに前へ進む力があるか?
志を起こし、心を修めなければならない。志を起こさなければ、煩悩を調伏できない。流れを遡る舟のように、水の力は強く、懸命に上へ漕がなければ、その場にとどまることもできず、必ず押し流される。上を目指す心を起こさず、内なる知恵の力を増やさずに、妄想や煩悩を手放そうと思うだけで手放せるだろうか?
《囚われ》 自分を閉じ込めることも、内なる見方の変化を待っているのではないか?
抜け出せなければ千の思いに縛られた地獄のようで、抜け出せれば海と空が広がる解放の天国のようだ。
《平実で平凡に》 修養は特別に見える必要があるのか、それとも普通の暮らしに隠れていてもよいのか?
深い修養のある人は俗世にも日常にも入り、奇をてらわず、特別ぶらず、人をぞっとさせない。
内に体得する法が、どうして文章の解釈にあるだろう? 仏の言葉ばかりでは奇妙ではないか? 平実こそ道、平凡こそ仏だ。
《解放と自由自在》 解放を求めながら、修行の外見にまた縛られていないか?
仏を学ぶ多くの人は、仏らしい顔、雰囲気、言葉で、いかめしく取り繕う。私は離れようとする。その人は仏教の「すれっからし」となり、「仏の魔」に入ったからだ。
真に修める人は、修養の姿を装わない。
仏教用語ばかりで地球の言葉を話さず、荘厳な死んだ顔で部屋の空気を汚す。雑念のない「空」の姿を作り、雑念を分けたつもりで「空」という雑念の世界に入り、雑念の縄を脱しても「空の姿」の縄に縛られ、分別心に入る。一言で「装い」だ!
深い修養の秘密は、俗世とつながり、空の姿を持たず、真実で、大いに自在であることだ!
解放こそ仏を学ぶこと、自由自在こそ道を修めること
《経験に今を支配させない》 過去を手放すとは、過去の経験を否定しなければならないということか?
手放すとは経験を否定することではなく、経験に今を支配させなくなることだ。
《過去を収め、行動を続ける》 変えられない過去と、まだ行動できる今日をどう分けて置くべきか?
取り戻せないことは落ち着く場所に収め、まだ行動できる部分を引き戻す。